竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年(1852年)5月28日 - 1900年(明治33年)7月26日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伴吉。
経歴
上野国勢多郡新川村(群馬県勢多郡新川村、南勢多郡新川村、新里村、勢多郡新里村を経て現桐生市)で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した。学問を好み、村塾で儒学を修め、渡辺真楫から治水造林を学んだ。
15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた。学務委員、村吏となり、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた。自由民権運動に加わり、宮口二郎、野村藤太、高津仲次郎、中島祐八らと上毛政社(のち上毛民会)を結成し、国会開設運動、条約改正反対運動などに取り組んだ。
1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、弥生倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
また、官有林を借りて不二山造林を行い、養蚕飼育、道路の改修、治山治水などに尽力した。
久米民之助の政治顧問に就任。台湾で鉱山事業などを展開したが、病となり1900年7月に台南の鳳山病院で死去した。
国政選挙歴
- 第1回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1890年7月、大同倶楽部)落選
- 第2回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1892年2月、弥生倶楽部)当選
- 第3回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1894年3月、自由党)次点落選
- 第4回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1894年9月、自由党)次点落選
脚注
参考文献
- 山中啓一編『上毛衆議院議員候補者小伝』白峰堂、1890年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 勢多郡誌編纂委員会『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年。
- 新里村誌編纂委員会『新里村誌』新里村役場、1974年11月3日。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。




